2015年10月22日

福田新之助展 (F8) ―存在と契約ⅩⅤⅡ― ギャラリー白 7/20-8/1

―「沖縄シリーズ」は、1995年戦後50年をむかえるにあたって、徳島県立近代美術館で開催された5周年企画「50年後―彼らは何を表現するのか」に、日本が体験した太平洋戦争を振り返るため制作された作品シリーズである。これら写真を使用した展示作品は、現代の沖縄を取材している。戦後70年の節目である2015年を覚える為にも70点で構成している。過去からの遺跡や現在の営みの風景である。-福田新之助(会場内に展示された文章)


今年、戦後70年の節目になるため「戦争と美術」をテーマとした展覧会が各地で行われている。美術史的にも戦争に関連する作品はタブーとされてきたようだが、近年は積極的に検証する動きが現われてきた。

福田氏は戦後生まれで当然直接の戦争体験があるわけではない。その戦後生まれのアーティストが戦争とどのように関わり何を表現できるのか。

ギャラリー空間全体に漂う死のイメージ。展示されたものはすべて焦土化した物体のように見える。壁に展示されたウエディングドレス、その両脇に社がおかれている。それ以外に鶴の折り紙、書物、バケツ、草藁や絵画化された国旗など日常的なものが無関係に配置されている。
壁には沖縄で撮影された写真も同じように汚れた遠い記憶のように制作されている。全体を構成する一つ一つのものは幸福や崇高、知や救済という概念と関連が深い。しかし色彩の排除により、それが一様に絶望と変化する様子を鑑賞者は体験する。
すべてが焦土と化した風景のように思えたが、表面に現れている物質はもこもことした土に見える。それにより焦土化した場所からの再生の世界を見ることができると感じた。「焼き畑に見る生命の回帰」のエネルギーが、焦土化した風景と重なり合う。

報告 教養課程講師 加藤隆明 協力 芸術計画学科合同研究室


2015年9月10日

南野馨展 (C85) ギャラリー白 7/6-18

陶で制作された正多面体の作品である。二つの正多面体が二重の内と外を作る。
制作過程を南野氏に聞く。 

―全体を構成しうる部分の形をパソコンで設計する。そこから型を制作、正二十面体に必要な個数を陶土で作り焼成し構築する。―
続いて彼は「この作品は誰にでもできる」と語った。一定水準の技術と構想力がある人ならば誰にでもできるということである。「私にしかできない」作品ではない、ここにこの作品の重要で魅力的なところがある。私たちが理解している「土と炎の芸術」その背後にある「日常的世界に用としてある陶器」の物語が浮かび上がる。陶器は工房にて職人たちの分業による大量生産の歴史があり、純粋芸術とは異なる。展示された作品は、そのような陶器の物語に近接しながらあるいは交差しながら現代の陶器作品に仕上がっているのだ。南野氏は重要なことを話していた。


―作品は自身がすべて作れる範囲で制作されている。パーツも自分が維持できる大きさと重さ、展示構成も一人で制作できるヴォリュームである-

ここに何かしら工業製品化可能なシステムと自らの肉体が関与せざるをえない接点が見えてくる。「用として大量生産されている陶器の世界」と「子供が孤独に粘土遊びする世界あるいは純粋芸術」が交差されているように思えた。

報告 教養課程講師 加藤隆明 協力 芸術計画学科合同研究室


2015年8月26日

山内亮展(S98) ギャラリー白3 6/29-7/4

広いとは云えないギャラリー空間の壁に動物らしき顔、そして鑑賞者の眼を直視している。私たちは三つの壁から力強い視線を浴びることになる。作品の鑑賞と同時に作品から見返されるのである。まさに「みる/みられる」関係の体現である。作品は常に空間全体からの気配を感じながら鑑賞しなくてはいけなくなる。ここには鑑賞者の優位性はなく、絵画作品が鑑賞者を支配していることになる。


画面がどのように作られているかをみる。画面には動物の顔がクローズアップされたイメージが見える。色彩は青、赤、黄の三原色の構成により制作されており、具体的動物の色彩とは無関係にある。筆跡は動物の表面をなでるようにあるいはその表面を無視するかのように見える。時には絵具は物質化し画面上に垂れ下っている。
眼球部分だけがほかの表面との違いがあり、激しい色彩や筆致とは対照的にクリアな空間を作りだしている。

※ S・大阪美術専門学校 芸術研究科美術専攻絵画コース

報告 教養課程講師 加藤隆明 協力 芸術計画学科合同研究室


2015年8月18日

松井浩一展 カルナー(F82)ギャラリー白 5/25-30

カルナーと題された松井浩一の個展である。ふわふわとした空気感と淡く広がる光が漂い鑑賞者は落ち着いた気分になる。空間に提示された作品を見てみる。白く塗られた木の枝と、同質の触感が感じられる膜のようなものがその枝の間に張り付いている。枝は枇杷の枝や桜の枝を使用し、枝と枝の間に和紙の膜が張られている。

枇杷や桜の木の枝でつくられた造形物は空中の漂う「何か」を掬い取るようにある。また場所により何層にも重なる膜は「何か」を包み込むようにやさしくある。造形物は全体に白々と光っており腕のように伸びた枝は艶めかしくもあった。

松井氏が名づけたカルナーというタイトルは慈愛と訳されもする。まるで仏の手が伸び掌を広げたような造形物に怖さとやさしさを感じる。作品は仏の縵網相(まんもうそう)のように見えてきた。

報告 教養課程講師 加藤隆明 協力 芸術計画学科合同研究室


2015年8月13日

雅あかまろう展 (F2) ギャラリー白  3/16-21

写真を基底にアクリル絵具、油彩、エナメル樹脂そしてCGコラージュや鏡を張り付けるなどして絵画が制作されている。基底となる写真には奇妙な枝ぶりの樹木や深遠な森が写されている。表面は削られたり一部切り取られたりと加工されている。その上には着彩、樹脂が施されさらに鏡を置いた作品などもある。作品を読み解くことは困難になり雅氏に制作や動機を聞く。撮影された場所は沖縄、八重山などの樹林で撮影された場所は「聖なる場」だという。そこは樹木の姿が他の場所とは異なるという。そのような場所を探し体験しその身体経験を絵画として構築している。

雅氏がそこに佇むことで感じるのは、身体全体の感覚が活性化され「生」の力が増幅するという。その場所にあるすべての生物、鉱物、気体、液体、光、闇などが緻密な関連により場が生成されているのだろう。見えない聞こえない大量な「何か」がその場所で交換しあっているのだ。それは肉体にも共鳴し活性化するのかもしれない、と雅氏の話を聞いて考えた。

その「生」の執拗な確認は雅氏の阪神淡路の震災からだという。そこで経験した「理不尽な死・偶然の生」その体験を絵画制作とし出来事を考え続けている。

作品の一つに複数の鏡を貼った作品がある。絵画に展示された環境を映しこむ効果のある作品だが、鑑賞するとき鑑賞者の姿が絵画の要素として映り込む。鑑賞者により姿を変えるこの作品に感想を共有することはできない。その鑑賞経験が「理不尽な死・偶然の生」のジレンマと繋がるように感じられた。

報告 教養課程講師 加藤隆明 協力 芸術計画学科合同研究室