2011年10月1日

中川雅文展 2kwギャラリー

nakagawaten000.jpg 中川雅文さん(美術学科97卒)の個展が8月29日より9月10日まで行なわれました。1980年代ヨーロッパやアメリカ等現実の世界に対する不安などから、新たな芸術運動ニューペインティングが生まれてきました。内容的には暴力的なイメージや乱暴そうに見える筆痕などで描かれた具象絵画が主でしたが中川さんの作品からはそのような要素はあまり見ることはできません。

 
nakagawaten001.jpg この作品ではイメージや色彩はファンタスティックで心地よいものとなっています。矩形のキャンバスに円を描くウロボロス(自らの尾を飲み込む竜)を描き、その周辺には軽やかな筆使いにより人物や得体の知れない生き物が描かれています。画面中央には柔らかい筆使いでゆったりと椅子に座り、編み物のような仕草を行なう女性が線描により描かれています。また表情が描かれておらず、観者の想像力を高めることになります。

 
nakagawaten002.jpg その周辺には、点滴を打つ車いすの女の子のように見えるイメージや杖をつく老女が描かれており、ウロボロスの意味と重ねることで、私には人間の営みの何気ない風景であり、その日常の輪廻的繰り返しの世界を汲み取ることが出来ました。

 
nakagawaten003.jpg 背景の色合いとイメージの輪郭線の白によりに、画面は西洋の星座表のような印象を受け幻想的印象を観者に抱かせると考えられます。
 ウロボロスという特殊なイメージとそれに反するようなありふれた日常のイメージの同居が不思議な風景であり、イメージと背景の構成や描き方が観者に心地よい気分にさせてくれる作品であると思いました。

 

nakagawaten004.jpg報告 加藤隆明教養課程講師 協力 芸術計画学科研究室
 
 


2011年9月27日

山本廣道展「ゆっくりとはじまる」  空夢箱

yamamoto04.jpg 8月23日から9月10日まで山本廣道さん(美術学科86卒)の個展が大阪中津、空夢箱(通称オレンジハウス)で行なわれました。

 

yamamoto00.jpg ギャラリー&カフェバーである空間で、作品を展示して地域の人たちと交流を持ちながらアートと親しんでもらおうと企画し実現したのが空夢箱(通称オレンジハウス)です。このギャラリー&カフェバーの企画し運営しているのは中橋健さん(芸術計画学科92卒)です。皆さんの作品展示企画をお待ちしていますとのことです。

 
yamamoto01.jpg 今回の展覧会は、ホワイトキューブではなく、カフェバーであり近所の人が集う場所でもあります。空間構成もオレンジ一色で、なかなか癖のある展示の挑戦しがいのある場所です。この場所で山本さんは、発泡スチロールや紙粘土等で制作した今はあまり見ない井戸から水を汲み上げる道具やマチスのダンスをベースにした土人形、セザンヌの静物画から触発され制作した作品が展示されていました。

 

yamamoto02.jpg 井戸手押しポンプの作品は、本物そっくりに作られていますが、制作素材から見て非常に軽く出来ています。ポンプの表面の錆びて朽ちてくいような表情はアーティストが特に慎重に制作している所です。モノが溢れているこの世界で、手押しポンプのイメージを選択していること自体、山本さんの何らかの世界観とそのものへの深い洞察があると思います。山本さんは、モノが朽ちてく様の美しさを語っておられました。日本の美意識は自然崇拝的要素があり、人間よって作られたポンプが、徐々に錆び自然に還る過程の姿に美を感じられておられるようでした。このような室内がオレンジ色で埋もれた場所での展示は難しいと思いますが、ギャラリーとは空間の雰囲気が異なり、作品の視点が異なって見える面白みがありました。

 

yamamoto03.jpg報告 加藤隆明教養課程講師 協力 芸術計画学科研究室

 


2011年9月24日

いきづく空間-未完の成-  ギャラリー白

siro0921000.jpg 画廊企画-未完の成-が8月22日から9月3日まで行なわれました。大舩光洋さん(美術学科90卒)が参加されておられました。
 今回の企画のテーマが「未完の成」であり、まずは展覧会テクストを一部引用します。

 
siro0921001.jpg 未完成な作品については、そもそも完成と未完成との明白な区別はいかに可能か、という考察も含めて、ミケランジェロやレンブラント、あるいはロダンを参照して、様々な議論や分析がなされている。

 
siro0921002.jpg大舩光洋はシルクスクリーンを用いているが、画面の一部に紙を置いて刷ってから取り去ったり、一度刷ったスクリーンの面に残ったインクを刷りとる、あるいは小さなスキージで部分的にインクを落としていくというといった、通常では用いられない技法を用いた作品を生み出している。

 

siro0921003.jpg あるいは、完成されるという言葉で示唆されるのは、すべてが決定されてしまって動きが無い作品の状態と言って良いだろう。未完成でありながら成立している作品、あるいは未完状態であることを以て成立する作品。それは作品がある静止状態において固定してしまうことから逃れ、常に運動するものであることを求める態度であろう。
奥村泰彦/和歌山県立近代美術館学芸員 

 

siro0921004.jpg 抜粋したテクストからも理解出来るように今回の企画テーマは、作品の未完成について、ということです。作品制作の経験者にはこのテーマはよく理解出来ると思います。
 大舩さんの作業は、シルクスクリーン技法の作法に別な要素を介入させ作品では失敗とされる「ノイズ」「汚れ」というようなものを画面に表象させ、それにより作品と観者との関係に揺さぶりを与えているのではないかと感じました。

報告 加藤隆明教養課程講師 協力 芸術計画学科研究室

 


2011年9月24日

岡田彩希子展『私は、私のすべての器官で、あなたを愛す。』 galerie16

 

岡田彩希子(1998年芸術計画学科卒業)の個展が2011年9月20日から25日にかけて、京都「ギャラリー16」で行われました。岡田さんは大阪芸術大学を卒業した後、大阪大学臨床哲学研究科研究生、京都大学人間・環境学部聴講生などを経て、現在は京都大学人間・環境学研究科博士後期課程に在籍し、精神分析と現代芸術の研究を行っています。

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本展は小さなライトに照らされて床に点在するオブジェと、プロジェクターで投影される2つの映像、繰り返し朗読されるテクストなどで構成されたインスタレーション作品です。オブジェには拾得物、母親の遺品、愛する人への贈り物などがあり、すべてが本来あるべき場所から切り離された物たちです。映像には性別のあいまいな人物が、浮かび上がるように黒い背景の中で立ちすくんだり、横たわったりしています。これら奇妙で頼りなげな事物を、傍らから見つめている生命の存在をテクストが語っています。
 この作品に寄せられた新宮一成氏(京都大学人間・環境学研究科教授、精神医学)の文章を以下引用します。
 

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“「すべてとは何か?」                   
 岡田彩希子展『私は、私のすべての器官で、あなたを愛す。』の空間に足を踏み入れたとたん、人は己の記憶の暗闇を想うだろう。しかし、小さな光に照らし出された点在するオブジェは、それぞれが記憶の塊のようである。記憶はじつはこんな落とし物であったのではないか。私の古い精神の空間に、誰がそれらを落としたのだろう。

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しかし私にはそれは拾えない。それを拾ったのは他者だ。してみると、私は別の人の目で私という記憶たちを見ている。これらの塊は、すべてが私。それらは、映し出される文字から、他者のような「生命」の声をひたすら聞いている。作家は、落ちていたものと、母の遺品と、愛する人にあげたものとで、今回の空間を構成したという。
 

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精神分析でやって来る想起は、話す主体に関わるものだ。しかしあるところまで来ると、想起の主体は自分ではなくなるかもしれない。実際、その主体が「生命」の環そのものとなり、自分は想起される落とし物としてそこに見出されるのみという剣呑な根源的事態へと、われわれはこの空間に乗って運び込まれていくのである。“       

 新宮一成(精神医学者)
 
投稿:大橋勝先生(映像学科)


2011年9月21日

門田修充展 番画廊

bann0922003.jpg 9月5日から10日まで門田修充さん(美術学科68卒)の個展が行なわれました。門田さんの作品は、アルミ板を加工したものと自然木を繋ぎ合わせたクラゲのような、あるいはツリーハウスのようなイメージの作品です。作品上部にはアルミ板を加工しドーム型に接合、表面には直線で構成された模様を切り抜き内部空間が見えるようになっています。下部には自然木の表皮を外し磨き自然木の柔らかさを表象させています。この作品は、自然木と人工物アルミにより構成されており、アルミの人工物で出来たカタチを自然の樹木が支えているという見方も出来ます。

 
bann0922000.jpg 作品に出会った時、最初にこのカタチのユニークさに心が引きつけられます。クラゲのようなイメージからは微笑ましさ、可愛らしさなどの印象が生まれます。しかし、アルミ板の鈍い光、規則的接合部分、そして切り抜かれたイメージが、なぜか人を遠ざける痛々しい感覚として伝わってきました。一つの作品の内部には、下に先頭部分を向けた小さな飛行機があり、この痛々しさと繋がるようなものであったと思いま
す。

bann0922002.jpg もう一つの作品では、内部から複数の紐が下に垂れ、途中に本体と同じカタチをしたものが置かれています。この小さきカタチにはまだ内部空間が外に通じておらず、可愛らしさだけがありました。自然と人工、怖さと優しさ、大きいものと小さいもの、相反するものが数多く同居しているのがこの作品でしょう。

bann0922001.jpg しかし、自然と人工では、自然は善で人工は悪的紋切り型の世界観でこの作品と出会うことは、あの巨大な自然災害を経験した後では、出来ませんでした。作品がユニークであるほど、現実世界の深刻があらためて感じさせられます。

 

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この作品は、門田修充作品集からの転写です。1973年大阪芸術大学10周年記念展とあり、門田さんは美術学科2期生だったそうです。

報告 加藤隆明教養課程講師 協力 芸術計画学科研究室