2011年3月9日

陶芸の提案2011 Ceramic Propsition

      

 みなさんこんにちは、ゲイブルです!今日は投稿ブログを紹介します!!

 2月14日から26日までギャラリー白、白3陶芸の提案2011 Ceramic Propsitionが行なわれました。このグループ展には一色智登世さん(07博士前期終了)金理有さん(06修士修了)高間智子さん(06院研究員終了)増田敏也さん(99工芸学科卒)山本朱さん(短大工芸卒)5名の方が出品されていました。
このグループ展の意図(コンセプト)について展覧会テキストを見てみます。

こんなかわいらしいものまで!! 

  陶芸でなければ表現できないものを模索しながら、陶芸に語らせることをしない制作。残されること「美術」なるものに憧れることなく「使い手」に向けて表現し続けること。それこそ現代において陶芸ゆえの提案となり得る指向性かもしれない。残されたものがその文化の現在を映し残すことを忘れない限り、未来における堅牢な遺物をもたらすことができるに違いない。   

中谷至宏(元離宮二条城事務所 担当係長 学芸員)
 
 テキストの最後だけの抜粋で不十分ではありますが、今回の展覧会の意図は十分理解出来ると思います。
 

工芸と一口にいってもいろいろなものが作れるんですね!!
 私の拙い工芸の知識ですが、この提案を考えてみます。過去にアートは純粋芸術(ファインアート)と応用芸術と区別されていました。工芸は応用芸術領域で純粋美術に憧れてきたという歴史があります。これを象徴する様に陶芸には陶彫という言葉がありこれは陶器の彫刻のことです。彫刻は純粋美術でありハイアートでもありました。その文脈で陶芸を捉えようとし彫刻という名前をつけ、応用芸術から純粋芸術に自らの芸術性を自己言及していくことになりました。そこで大きく変化したのは、純粋に視覚に訴える作品となった時、陶芸特有の「作家―作品―使い手」の関係が消滅したのではないのでしょうか。今回の「陶芸の提案2011」では、そのような問題提起がなされていると思います。そして現代における「使い手」とは何だろうか、そのような視点から作品を鑑賞品してみました。
 このテキストを読んで、過去にピーター・ヴォーコス展を鑑賞した事が思い浮かんできました。

春らしい作品ですね!  これは一体・・・?  まるで生えてきたみたい・・・!

報告 加藤隆明 芸術計画学科講師